カイロプラクティックから整体院へ
さて、接骨院でカイロプラクティックを受けた後の話に戻ろうと思う。
初回のカイロプラクティックで劇的に症状が軽くなりホッとしたのもつかの間、一晩寝ると痛みは元に戻っていたのだ。
カイロプラクティックによって歪んだ背骨や骨盤が整い椎間板によって圧迫されていた神経に隙間が出来たのだろう一時的な神経痛からの開放は時間によって元にもどってしまったようだ。
接骨院の院長の説明だと何回かの施術は必要なので数日後にまた来院しろとの事だったので言う通りにした。
たしか月曜と木曜しか院長がいない為、週ニでしばらく通ったと思う。
初めの数回は家に帰るくらいまでは痛みが引いていたのだが3ヶ月目くらいには施術後に変化が無いほど効果が無くなっていた。
途中何度か院長が不在で施術を受けられない事があり母には内緒で治療費をちょろまかした事がある。
保険適応適応外なので毎回3500円かかっていたのだが中学生の自分にはとても大きなヘソクリになっていた。
今思うと裕福では無い家庭だったのに大変申し訳無い事をしたと反省している。
結局、高校受験が終わった頃にいい加減効果がないのでは?との事で自然と通院しなくなり以降しばらく病院に通う事はなかった。
症状は当初と、変わりなく太腿とふくらはぎの側面に坐骨神経痛と慢性的な腰痛を抱えたまま高校へ進学する事になった。
高校は片道1時間半もかかる私立高校に行くことになったのだが、これも椎間板ヘルニアのせいとしておこうと思う。
一応言い訳だが、中学3年時に椎間板ヘルニアが発症し勉強など出来る状態ではなかった。成績は下る一方で志望校を定める事が出来ず公立高校の5教科試験の勉強をする気力が無かったので私立高校の単願受験を選んだ。
当時の単願受験とは内申点で決まっており、試験は形だけの合格が約束されているような受験だった。
結果的に受験勉強などほとんどせずに高校に進学する事になった。
今考えると、もっと近くの学校に行けば良かったと思う。
もちろん高校生活が始まっても椎間板ヘルニアの症状は良くなる事は無く毎日地獄のような生活だった。
通学で燃え尽きそれこそ勉強などまるで手に付かない状態で校内でも最低の劣等生だったと思う。
ただ、この学校で新たな道が偶然にも開ける事になった。
ある日、クラスメートのおっとりしたイジられキャラ的な友人にちょっかいを出した。
背後から頭を掴んでゴキッと曲げるカイロプラクティックの真似事をしたのだ。もちろん友人は怒ったが私がカイロプラクティックだと言うと、カイロプラクティックはそんなのじゃない!と言い返してきた。
当時カイロプラクティックを知っている高校生などいないと思っていたので何故知っているのか訊ねると、なんと母親が整体院の院長だと教えてくれた。
そこで、自分の経緯を説明しお母さんに聞いてくれとお願いすると、次の日には医院に来なさいと言ってくれた。
本来、レディースクリニックなので女性専門の整体院だったのだが息子の友人という事で特別に診療してもらえる事になった。
整体院での治療に続く
慢性腰痛から坐骨神経痛
人生初のぎっくり腰の痛みが引いてからは首、肩、腰が重だるく、こる事が度々おきるようになった。
激痛がおこる事はなかったが部活のバレーボールでジャンプした後の着地で足が踏ん張れなくなる事が時々あり中学三年生になる頃には左足の膝に力が入り難いというか、疲労で膝が笑ってる様な感覚になった。
中学三年生の体育祭で男子は組体操を行った。
私はそれなりに大柄であったため人間の塔の土台に任命された。
四段の塔なので6mほどの高さになる、てっぺんは一人、その下は三人、その下は六、七人、その下の土台が十三、四人で円陣を組みそれぞれ肩の上に立つという何とも危なっかしい出し物。
当時何処かの中学校で五段の塔の死亡事故が起きたので四段にする!とかって決まったらしい。
いきなり校庭で練習をするわけでは無く最初は柔道場で練習をした。
円陣を組んでしゃがんだ状態で肩に次々と人が乗り、土台から順に立ち上がっていき最終的にてっぺんが立ち上がって決めポーズ。
ぶっちゃけ土台は過酷だった。
数回の練習で腰が限界を迎え役割を交代してもらった。
ぎっくり腰というか腰周りの筋肉がちぎれる様な異様な痛さがしばらく続いた。
また今回も放っておけばそのうち治るだろうとそれなりに安静にしていたのだが、ひと月ほど過ぎた辺りで太腿とふくらはぎの側面がキリキリと痛み始めた。
最初は腰の痛みが引きつって足が痛い錯覚的なものかと思ったが、みるみるうちに痛みは酷くなり座っていてもズキズキと耐え難いものになっていった。
そこで初めて病院に行こうと決心した。
これが私が椎間板ヘルニアを発症した経緯と原因だと思う。
カイロプラクティックから整体院へに続く。
椎間板ヘルニアの原因2 人生初のぎっくり腰
人生初のぎっくり腰になったのは中学二年生の初め頃だったと思う。
その頃、クラブ活動はバスケットボールからバレーボールに転部していたが日々飛んだり跳ねたりの毎日だった。
頭痛も疲れが溜まっている時や寝不足の時にたまにおこるくらいでまさかその時は首を痛めてるとは思っていなかった為、運動に特別な制限を付ける事なく一般的な普通の運動をしていた。
ある日、体育の授業で走り幅跳びをしていると着地の瞬間ドカンと背骨に衝撃が走った。
最初は何が起きたのか判らなかったがとにかく直立姿勢から身動きがとれなくなった。少しの衝撃でも腰に電撃が走る。
特に痛みが顕著であったのが腰を曲げるお辞儀の姿勢と首を傾け下を覗き込む姿勢で、脱いだ靴を下駄箱にしまう事が出来ないほどであった。
これがぎっくり腰か!と自分なりに納得してしばらく安静にしておこうと思った。
当時、よほどの事が無いかぎり病院へ行く事などなく放っておけば治ると思っていたのでとにかく放っておいた。
余談だが指を骨折しただろう事があったが割り箸を添え木にテーピングで固定してやり過ごした事もある。
ちゃんとくっつかなかったのか未だにプラプラしている。
人生初のぎっくり腰だが、体育の走り幅跳びの着地で発症し、ひと月ほど安静にしていたら自然と痛みが引いた。
慢性腰痛から坐骨神経痛へに続く
椎間板ヘルニアの原因?
整形外科、接骨院、脳神経外科と受診しなぜ椎間板ヘルニアに至ったのかを思いかえしてみた。
まず、脳神経外科で指摘された頚椎の欠損だが確かな心当たりがあった。
それは椎間板ヘルニア発症から遡ることニ年、中学一年生の時だった。
当時、所属していたバスケットボール部の放課後練習中に野球部の打った球が首にダイレクトに当たったのだ。
校庭は狭くは無かったが様々なクラブがそこかしこで練習している状態であり、打球は野球部のスペースを越えテニス部のコートを越えバスケコートに到達した所謂ホームラン級のものだった。それがダイレクトに首にヒットしたのだから目の前が真っ白になり目から星が飛び出た。
全く予想もしてない状態で不意に首に衝撃を受けたのだから立ってもいられずひっくり返ったか座り込んだと思う。
周囲は大騒ぎでバスケ部の先輩やら大勢集まってきた中、野球部の打った本人が誤って来たのを覚えている。一つ先輩のショウジという奴だ。ヘラヘラ笑いながら誤ってたな。思い出すとムカつくぜ。後でぶん殴ってやればよかった。
すぐにクラブの顧問の先生が駆け付け様子を聞きに来たが多少頭がフラフラするくらいだと伝えると今日は帰れと車で家まで送ってくれた。
今思うと、救急搬送レベルだったのでは?
病院にも行かず強制的に帰宅させた意図は何だったのか?
かなり疑問に思う事がある。
その後、首と肩はパンパンに凝り固まり寝ても覚めても頭はズキズキと痛み始めた。
数日経っても頭痛が収まらずこれは流石に危ないと思い事故後一週間ほど経った辺りで最寄の総合病院で頭部CTを撮ったが異常は見られないとの事だった。
多分この時に頚椎を部分骨折していたのだと思う。
所詮子供の訴える頭痛症状に医者も両親も本気に向き合ってはくれなかったのだ。
結局頭痛が治まるまでに三ヶ月くらいかかった上に慢性肩コリと偏頭痛持ちになってしまった。
それから半年もしない間に人生初のぎっくり腰になる。
これも首の余波であったのだろう。
椎間板ヘルニアの原因2 人生初のぎっくり腰に続く
接骨院でカイロプラクティック
腰の牽引で症状が悪化した感じがあったので接骨院にいってみた。
初診で体の歪みを指摘され症状が重い事から指定された脳神経外科にてレントゲンを撮ってきてくれと言われた。
接骨院から連絡がいっており、首、肩、腰のレントゲンを撮ったのだがそちらでも初診の為、診察を受けなければならなかった。
そこで驚愕の事実が判明する。
首の骨、第一頚椎と第二頚椎の一部分が欠けて無くなっていたのだ。
脳神経外科の先生は
腰なんかどうでも良い!
首は何とも無いのか?
と大騒ぎしたが当時首に不調は感じていなかったのでとにかく足が痛くて辛いと言って接骨院に戻った。
接骨院の、院長は複数枚のレントゲン写真からこう推測した。
- 何らかの強い衝撃を受け頚椎が欠損
- 欠損により頚椎の動作に不具合が出る
- 首、肩、背中と筋肉が緊張する
- 骨盤が引っ張られ背骨が歪む
- 不安定な腰椎から椎間板が飛び出し神経痛を起こしている
- 整形外科での牽引は筋肉の緊張が酷い場合は輪ゴムを引っ張って放したように反動が強く出て症状が悪化する事があるから注意
確かに横からみた頚椎のレントゲンでは下を向いたときに第二頚椎と第三頚椎の間が広く空き過ぎていたり。
正面からみると肩、骨盤の位置の左右差はあからさまでまるで斜めに立っている様な感じだった。
接骨院での治療としては電気治療、マッサージ、湿布などで筋肉の緊張をほぐし、体の歪みを正す事で椎間板ヘルニアによる坐骨神経痛を和らげる事が出来るとの事だったが高校受験を間近に控えていた事や痛みが酷かった事もありカイロプラクティックを受けてみないかと提案された。
カイロプラクティックは院長しか施術出来ない。
保険適応外で一回の施術に3,500円かかる。
即効性がある。
みたいな説明があった。当時中学生だった自分にとって聞いたことの無い治療と高額の治療費から多少恐怖心があったが母に頼み受けさせてもらう事にした。
そこでのカイロプラクティックはあのメカメカしいベッドに寝てベッドのギミックを使い衝撃で骨を動かすようなタイプのものだった。
院長「よいしょー!」
ガッシャッーン
みたいな結構激しい治療だったが別に激痛を伴うなどは無かった。
そして治療が終わるとなんと足の痛みは1/10程度になっており、まるで生き返ったような感じがしたのを覚えている。
また3日後に様子をみせにいく予約をし帰宅した。
脂汗をかき、足を引きずり向った接骨院から走って帰れる程になっていた。
椎間板ヘルニアの原因?に続く
椎間板ヘルニア宣告 整形外科編
初めて病院で病名を告げられたのは今から25年も前の事、15歳中学3年生の秋頃で所謂町の整形外科を受信した時だった。
症状は腰痛と左足太ももからふくらはぎの側面にかけての神経痛で立っても座ってもキリキリとしみるような痛みがあった。
唯一の楽な姿勢といえばうつ伏せで寝てる時だけだった為、当時受験生だった私はうつ伏せで勉強(する振り)していた。
痛みによる疲弊で、はっきり言って勉強が頭に入ってくる状況ではなかった。
そんな姿を見て母は「勉強したくないから痛い振りしているのでしょう?」などと母らしからぬ冷たい事を言った事を今でも忘れない。
そんな事もあり、いよいよ病院へ行く事になるのだが最初に行ったのは学校で怪我をすると皆が行く整形外科。
レントゲン撮影をし腰椎の隙間が狭い事と仰向けに寝た状態で膝を伸ばした足を持ち上げられ痛みが強く出る事から腰椎椎間板ヘルニアで、もうちょっと症状が酷いと手術だと告げられた。
取り敢えず、リハビリと痛み止めで様子をみようと言う事になり
が処方され、リハビリは腰の牽引をした。
4〜5回リハビリに通ったあたりで症状は悪化、学校では授業中に脂汗が出るほど痛みに耐えなくてはならなくなった。
当時、同じく腰痛に悩まされている理科の先生がとても親身になってくれ、ありがたかった事を覚えている。
担任が柔道の指導者だったので相談してみると整体に行ってみろと言われたが教えてもらった整体院が電車で30分ほどかかる場所だったので通院するには遠いと感じ、自宅から歩いて通えるカイロプラクティックをやっている接骨院を見つけ行ってみる事にした。
カイロプラクティック編に続く
椎間板ヘルニア闘病記
現在40歳、腰椎椎間板ヘルニアを患い25年以上。
発症から4度に渡る手術まで記憶を遡り書き記していこうと思う。
なぜ、あの時こうしていなかったのか?
なぜ、あの時こんな事をしたのか?
殆ど後悔の記憶しかないが整理するつもりで書き記していこうと思う。